レパートリーの研究法(J.T.ケント)

 結局のところ、レパートリーに書き出された患者の症状の全てが取られるべきである。初心者は既往歴を省略しようとせず、それ以上なければ、練習のため一般面のルーブリックを全て書き出すべきである。もし憂鬱がその言葉であったならば、言葉に合うレメディーを、目盛り全てに書き出すべきである。鬱が月経前にだけ現れるならば、悪化の特別な時期がある一般的な部類のレメディーの数を一目で見せるため、副ルーブリックを置きなさい。多くの非常に優れた治癒は、特別な(症状)が役に立たない場合、一般的なルーブリックからできており、10年間の注意深い注釈において、多くの一般的なルーブリックの症状がもたらされ、最高の臨床検査を提供している。このことが為されれば、為されるほど、忙しい医者は症例の記録をより簡潔にできる。

 特別な悪化は大きな手助けとなるが、観察が欠けていることがよくあり、一般的なルーブリックが点検に組み込まれなければならない。 

 また、我々は類似性によって仕事を進めなければならない。このボーニングハウセンの「ポケット・レパートリー( Pocket Repertory)」が、非常に素晴らしく役立つ。

 ミントンの非常に優れたやり方を取ると、生理痛が熱によって改善するのは、Ars.とNux.(-v)の特徴であり、蒸し暑さによる(改善)はNux-mの特徴である。しかし、ある症例の症状はこれらのどれにも似ておらず、更にマテリア•メディカに進まねばならない。そこでは類似性による既往歴を形成でき、一般面のルーブリックを利用し、熱や暖かいものの適応による一般的な改善で知られるレメディーを、全て取ることができる。

 系統的には、一般面のルーブリックが処方家の記録に出てくるべきで、特別な事はその下である。この進め方が注意深く取られたならば、10年の研究の比較は非常に有益となろう。一般面でレメディーの真実であることは、特異面においても真実であり、特に逆を含む例外の欠如においても、よく立証されている。

 このやり方を初心者が行った場合、常に既往歴と共にマテリア・メディカを読み、仕事が多くなった時には簡単でスピーディになるだろう。若い人だったら1日に2〜3人の患者を処方でき、注意深くホメオパシーの治癒をし、2〜3年したら20〜30日十分に処方できるスピードが身につ供養になるだろう。この注意深い方法をしたくないと思っている人は、正しい道が本人になく、欲望が行為に先んじているので、ホメオパスの振りをすべきでない。

 患者が症状の真の特徴を表現するのが最善であるが、言葉で症状を表現するとは限らない。その時は判断を要され、治療家が症状の正しい見解を得るかもしれない。若者と、そしてよく老人もそうなのだが、特徴の真の表現に導かれて、(治療家は)不適切な処方をすることになるだろう。症状をとる作業が非常に困難なことがよくある。その症例への非常に特異なキーを含むある症状を選ぶことによって、既往症の形に短縮できることがある。若者はこの特異性に気づけないことがよくあり、それを試すことは滅多にない。取り扱う症例において3〜4の本質的なグループをとることで、短縮しやすいことがよくあり、それを要約し、 本質的な症状全てで見つからないレメディーを削除する。多くの経験を積んだ人は、この方法による作業は短くなるだろう。若者は症状のモダリティーを間違えることが、頻繁にある。このことは正しい結果を得るには致命的になる。症状は感覚あるいは状態であり、モダリティーは修正箇所に過ぎない。症状はモダリティーを通して、特異にも特徴的にもなることが多い。

 感覚がレパートリーで調べられると、それに属する全てのレメディーが書き出され、モダリティーによって個人化が進む。

 症例に適応する特異性によって何が理解されるか、質問されることがよくある。ほんの小さな考えで、皆解決される。

 高熱、喉の渇きを伴わない発熱は、ある程度特異である。冷たい水を欲しがるひどい寒気は、特異である。発熱を伴う喉の渇きは特異ではない、というのは喉の渇きを伴う発熱は普通に見られ、喉の渇きがない発熱はあまり見られない、と確実に言うことができるからだ。どんな疾患でも普通であることは、決して特異ではない。このことは、単純過ぎて、説明を要しないように見えるが、そのことを知っている人に次のページに行かせなさい。特徴的な症状は個人化には使われず、常識的に求めるのに全く特異ではない。

 「病でなく患者を治癒しなさい」と初心者に言う時、私が何を意味しているのか尋ねられる。私の答えは常に次のようである: 診ている症例に滅多に見られない症状が、病にとって特異でないものだが、患者には特異なものであるゆえ、患者の特異性が病気を作ったのだ。その集団のメンバー全員と違い、その集団の他の誰とも違うう病気を作り、その患者に影響を与えるその疾患を作り、それ自体が個人的で、そして個人として治癒され得るのだ。患者のこの個人性が、ほぼ常に目立ち、そして常に真のヒーラーに見つかる特異な症状によって、それ自体を表す。発熱にAcon.を与える人は医者の掟や義務の精神性が、全然わかっていない。疝痛にColocynthや、寒気にArsenicumなども同様である。

 「同じ患者にいくつかの特異性が見つかったら、どうしたらいいのか。一つのレメディーはそれ全部をカバーしないのではないか」。このような時、洞察力のある医師はレパートリーを取り出し、全体に最も類似した一つのレメディーを探し始め、もし彼が数年間学生であったならば、馬鹿げた質問を広げる必要はない。怠慢な人は愚かな享楽にふけ、信じる枠が狭い人は多くの価値あることを突き抜けるため、公に馬鹿げたことを質問し、非常に下手にとった症状で症例を報告しているため、過去の行方を暴いて見せている。その人はレパートリーを使っておらず、ルーブリックも、ハーネマンが教えた症状をとるための普通の形式を全く知らないことを見せている。彼らの無知全てに責任を持たないとは、おめでたいことだ。責任はどこにあり、誰が「初めに石を投げる」のか。

 罪にウインクするのは非常に容易いことなので、我々自身が審判が見つからないように思える罪を犯すか、あるいは最初の掟破りを非難する前に怪我をする。

 自由は、非常に恥ずかしいことに、虐待されてきたため、自由への叫びは重大な間違いを有する。それは暴力の掟への許可を意味し、謙虚な弾力性と、十分な折衷主義がその産物である。昔のヒーラーたちが皆よく閲覧してきたレパートリーを排斥したり、使用を制限したりしてきたことが自由である。もしボーニングハウセンがプルービングされた制限されたレメディーでレパートリーを使っていたのであれば、我々がそれ以上どれだけ、それを調べる必要があるのだろうか。

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